是川銀蔵(これかわ ぎんぞう)

伝説の相場師 是川銀蔵


1897年兵庫県生まれ。高等小学校卒業後。神戸の貿易商の元で奉公する。以来、さまざまな事業で成功、失敗を繰り返し、敗戦で無一文になる。昭和35年から大阪北浜で株の世界に入り、日本セメント、同和鉱業、不二家、住友金属鉱山などの仕手戦で勇名を馳せた。


成功

数々の成功がある中で銀蔵を世に出したのは、住友金属鉱山での成功だろう。そのきっかけとなったのは日本経済新聞に出ていた「金属鉱業事業団、鹿児島県菱刈金山に高品位金脈を発見」という小さな記事であった。銀蔵は昭和13年から終戦まで朝鮮半島で鉄山と金山を開発し経営をやってきた経験があり、これが活きてくることになる。早速現地へ飛び調査した。当初金属鉱業事業団は700m間隔のボーリングの結果は、たまたま2本の深鉱場所が高品位の鉱石に当たっただけで、他の鉱脈は低品位の鉱脈が続く可能性が高いとの説明だったが、そこは金山開発やっていた銀蔵、金鉱脈は千本ボーリングしても数本あたるかどうかというものなのを知っている。2本ボーリングして2本とも金鉱脈にあたるなど、まぐれや偶然ではありえないものなのだ。この時点で銀蔵は大金脈が続いていると確信した。そこからの行動は実に迅速であった。その日の寄付きから数十社の証券会社を動員し成り行きで買い捲くり、途中自身で冷やし玉(空売り)を入れながら5千万株を集めた。結局、この勝負は途中売り筋の登場などで窮地になる場面もあったが、当初の読み通り鉱脈は続いており、大成功に終わった。

菱刈金山
簡単に書いてしまったが、この勝負は途中いろいろな駆け引きがあって面白い。調査が進む内に銀蔵は西側のボーリング地点に隣接する鉱区の鉱業権を5億円で住友に早く買い取っておきなさいとアドバイスしているが、住友側は所有者の経済的窮地を知っており、いずれ3千万程度で泣きついてくるに決っており、その時を待っているとのこと。銀蔵はそのとき「天下の住友ともあろうものが、相手が破産寸前だからと、十億も二十億円もの価値のあるものを買い叩こうなど、そんな残酷なことはおやめなさい。これから大事業をやろうとしている時に、そんな精神では成功しませんぞ。相手が弱っておれば、それだけ高い値段で買ってあげなさい」と言っている。結局、住友側は買わず銀蔵が5億円で買収することになった。所有者は既に3千万でも住友に売るつもりでいたらしく、銀蔵に何度も何度も礼をいったと言う。

そこから、住友金属鉱山の株は乱高下を繰り返しながら、売り筋の登場などで大幅に下落して行く、それに輪をかけたのが住友金属鉱山がボーリングデータの発表を控えていたからだ。市場は疑心暗鬼になっていたのだろう。銀蔵もとうとう40億の追い証に追い込まれ、絶体絶命になるが、住友側が5百5十万株の株の引き受けと、銀蔵が買い取った土地の実費での譲渡で話がつく。住友側は本当に土地は実費で良いのかと、きまり悪そうに何度も尋ねたとか。「あんたのとこが買わんというから、わしが代わりに買っといたんやが、もしわしが買わなんだら他の人に買われ、あんたのとこは買い戻すのに大金が必要だったはずや。あんたんとこに買っといたんやから実費で結構です」住友の社長は驚き、申し訳なさそうにしていたとか。

そう約束したとたん次の日の日本経済新聞朝刊一面で、「国内最大級の金鉱開発、住友鉱山推定埋蔵量100トン」と出たのだ。当然、住友金属鉱山には買いが殺到しストップ高となり、その後も急騰を続け1,000円を超える相場になる。結果的には銀蔵は住友側に嵌められる形で株価を操作され、持ち株の一部と土地を安値で売却してしまったのだが、そんなことより自分の予測が正しかったことの方が、彼には嬉しかったのかも知れない。住友側は口約束だったので株と鉱区の譲渡に銀蔵が上乗せして請求してくるのではないかと心配に成り何度も電話をしてきたとか。「当たり前やないか。男がいったんとりかわした約束は例え口約束でも反故に出来ん。約束は守って当然や。わしは二枚舌を使った経験など一度もない」と言ってのけてる。なんともスケールの大きい男である。銀蔵はこの勝負で200億円を儲け長者番付で一位になる。

失敗


是川銀蔵にとって自慢の息子、当時フランクフルト大学理学部教授、同大結晶学研究所所長の要職にありノーベル賞候補ともいわれていた長男の正顕氏が喉頭癌にかかってしまった。銀蔵は当時、持田製薬と岡山大学医学部で共同開発中の「OH-1」という制ガン剤を見つけ、自分で何度も調べた上、猛烈に買いはじめたのだ。もちろんそれなりに根拠はあったのだろうが、それ以上に長男の癌を治してやりたい、その可能性を持った薬が開発されようとしている、そのことが親心として銀蔵を動かしたのは想像に難くない。当時の株式市場は、ITブームならぬ制癌剤ブームであり薬品株は人気セクターであった。そのなかでも持田は「OH-1」の材料のもと2500円からなんと16600円まで大暴騰する。

結局、銀蔵は高値圏でも買い捲った結果、この勝負で100億円前後の損を出すことになったといわれている。相場の神様、歴戦の勝負師もマーケットに私情を持ち込んでしまい冷静な判断を失ってしまった悪い例だが、この失敗をどうこう言うことは酷というもの。銀蔵もやはり1人の親であり、人間であったということだろう。


投資哲学

大手ミシンメーカーのリッカーが倒産する前、銀蔵も証券会社から材料を提供され空売りをして儲けたらどうかと勧誘されたが「そういう金の儲け方はしたくない」と言って動かなかったと言う。「私はつねづね、人の不幸に乗じてカネを儲けたくない、そう思ってきた。それが私の人生観であり、もっとうである」

銀蔵は後にこう語っている。「ほんとうのことを言うと、私は空売りして儲ける方が、戦術的には得意なのである。しかし、そう言う場合でも、つぶれかかっているような会社に、トドメを刺すようなやり方は避けてきた」さらに「そんな綺麗ごとを言っていたら金儲けのチャンスを逃してしまうじゃないかと言われそうだが、私は逃しても止むを得ないと思っている。たとえ失敗しても、なんぴとにも非難されないような正々堂々たる失敗をしたいと思っている。これは株式投資だけではない。いかなる場合であろうとも、天下の正道を歩む。それを貫く信念のもとに生き抜くべきであろう。人間は金の奴隷ではないのだから・・・」

銀蔵は同和鉱業の失敗で破滅寸前になったことがあるが、野村証券や取引先の丸荘証券が異例とも言える株の肩代わりをしてくれて、助けられている。穿った見方をすれば当時、仕手戦を通じて人気の高かった銀蔵を潰せば、証券界にもマイナスだとの認識からかも知れないが、もし銀蔵がなりふり構わず、カネだけ儲かればいいと言う相場師だったなら、証券会社も助けてはくれなかったであろうし、逆に潰されていたのではなかろうか。誤解されると困るので書き足しておくが、銀蔵は空売りを否定している訳ではない。あのK氏が率いる投資集団「誠備」との対決では、彼らの買いに対し売りで勝利を収めてもいる。

株は芸術

「私にとって経済の研究は、最高の芸術なんや。芸術というものは、作者の純粋な気持ちを注ぎ込んで、情熱を持って作りあげられた作品が芸術として認められるわけですね。だから、例えば画家が全身全霊を打ち込み、一心不乱になってキャンパスに向かっているときの心境と、私が株式投資をやってるときの心境とは相通ずるものがあるのや」

確かに一流の画家がこの絵をいくらで売ろうと考えながら、キャンパスに向かうことはないだろうし、イチローや松井が此処で一本打ったら、いくら儲かるなどと考えながら打席に向かうことも無いだろう。我々凡人は直ぐに金の計算をしてしまうが、銀蔵の投資とは芸術だったのかも知れない。金はあくまで後からついてくるものであり、利益は自分の予測の正しさを証明する手立てであり、目的ではない。晩年の彼の言動を考えると、そう思えてならない。


是川銀蔵 カメ三則

・銘柄は水面下(2合目、3合目)にある優良なものを選んで辛抱強く待つ。
・経済、相場の動きから常に目を離さず自分で勉強する。
・過大な思惑はせず、手持ち資金の中で行動する。

参考文献:講談社「自伝波乱を生きる 相場に賭けた六十年」 是川銀蔵 :KKロングセラー 是川銀蔵の株必勝法 木下厚


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